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国分寺市立第四中学校
校区
東元町三丁目及び四丁目の全域
西元町一丁目から四丁目の全域
泉町一丁目から三丁目の全域
内藤一丁目及び二丁目の全域
アクセス
中央線・武蔵野線西国分寺駅から徒歩20分
中央線国立駅南口から京王電鉄バス
「国01」府中営業所行
「国02」東芝前経由府中駅行
「国03」総合医療センター・東芝前経由府中駅行
いずれも「警察病院前」下車 徒歩2分
主な卒業生
藤野智一 - 自転車競技選手。バルセロナオリンピック代表
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足立区立鹿浜中学校
概要
足立区西部鹿浜地区に立地する公立中学校である。
教育目標[編集]
常に考え行動し、協力し合う人になろう。
お互い人格を尊重し、礼儀正しい人になろう。
心身ともに健康で、明朗な人になろう。
自ら進んで学習に打ち込む人になろう。
部活動
運動部
サッカー部
野球部
女子バドミントン部
女子テニス部
女子バレーボール部
陸上競技部
柔道部
男子バスケットボール部
女子バスケットボール部
文化部
吹奏楽部
合唱部
将棋部
美術部
ガーデニング部
委員会活動
生徒会
歴代校長
1.田澤 昌雄
2.星野 幸男
3.古川 義久
4.岡野 康吉
5.松木 和也
6.村上 誠
7.大塚 久幸
8.岩崎 一
9.小倉 冨美夫
10.小出 清道
11.岡田 嘉秋
12.紺藤 外喜夫
所在地
〒123-0864
東京都足立区鹿浜五丁目18-1
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城北埼玉中学・高等学校
概要
城北埼玉の構想が出来たのは、1970年代である。この頃、当時の城北中学校・高等学校の校長であった近藤薫明が構想を練っていた。そこに、埼玉県の高校誘致による関係で、現在の城北埼玉高校の構想ができた。
埼玉県における進学校である。「着実・勤勉・自主」を校訓としている。基礎に重点を置きながらも、入試に直結するような授業を展開する。3年次には8月と受験直前1月に受験対策のための合宿が行われる。
沿革
1979年6月 - 城北学園理事長兼校長近藤薫明が、城北中学・高等学校と同一の建学精神を持つ高校を埼玉県川越市に建設する計画を公表する。
1979年11月 - 川越市農業委員会及び関係各省庁に農地転用許可を申請する。(11月11日。開校記念日。)
1979年12月 - 正式校名を「城北埼玉高等学校」と定める。
1980年4月 - 城北学園城北埼玉高校として開校。1学期中はプレハブ校舎で授業を開始。高等学校長に近藤正巳就任。
1980年11月 - 学校法人城北埼玉学園として独立、理事長に近藤薫明就任。
1982年11月 - 校舎完成記念式典挙行。
1985年7月 - 校外施設「白樺荘」が群馬県利根郡新治村猿ヶ京(現・みなかみ町猿ヶ京温泉)に完成。
1986年3月 - 室内温水プール完成。
1986年4月 - 付属グラウンド(荒川河川敷野球場)完成。
1987年4月 - 校舎3号館増設。
1992年8月 - 全館冷暖房設備完成。
1992年12月 - 理事長に近藤正巳、学園長に近藤薫明就任。
1994年9月 - ドーム型食堂完成。
2000年4月 - 理事長に近藤文彦、高等学校長に磯部徳彦就任
2002年3月 - 近藤記念ホール完成。
2002年4月 - 城北埼玉中学校開校。中学・高等学校長に近藤文彦就任。
2002年12月 - 第3グラウンド完成。
2004年4月 - 部室棟完成。
2009年11月 - 同窓会発足。
2011年4月 - 中学・高等学校長に森泉秀雄就任。
歴代理事長1.近藤薫明(1980年 - 1992年)
2.近藤正巳(1992年 - 1999年)
3.近藤文彦(2000年 - 現在)
歴代校長1.近藤正巳(1980年 - 1999年)
2.磯部徳彦(2000年 - 2001年)
3.近藤文彦(2002年 - 2010年)
4.森泉秀雄(2011年 - 現在)
特色
学校週5日制を採用していない。高校2年次より理系・文系に分かれてクラスを編成し、3年次ではさらに細かくクラス・コース分けをしている(私立文系日本史コース、私立文系世界史コース、国立文系コース、理系選抜コース、理系コース)。また、高校1年次からは成績優秀者を集めた選抜クラスも存在する。また文系クラスでもセンターや国公立二次試験に対応できるレベルの数学の授業があるなど数学に力を注いでいる。
「城北埼玉中学・高校」は呼び名として長いので、呼びやすくするために「城玉(じょったま・じょうたま)」と呼ぶこともある。この時「城北(じょうほく)」と呼ばないのは、東京都板橋区にある城北中学校・高等学校との混同を避けたためである。
城北中学校・高等学校と同様、毎授業の前に、目を閉じ、姿勢を正して、「静座」を行う。1年行うことで約1日分の時間になる。
制服中学生・高校生ともに黒の詰襟。中学生は黒ボタン、高校生は金ボタンとなっており区別が付けられる。Yシャツも中学生は薄いグレーのチェック、高校生は無地と相違がある。
設備
ドーム型食堂内部食堂 ドーム型の大きい食堂がある。
室内温水プール 室内温水プールのため水泳の授業は各学期ごとに各学年行われる(1学期-3年生、2学期-1年生、3学期-2年生)。また水泳部が年間を通じて活動している。
近藤記念ホール 1階が多目的教室(会議室など)、2階がホールとなっている。1階には多目的教室の他、シャワー室なども備えられていて運動部の合宿等もここで行われる。2階のホールは当初入学式の会場として使用されるはずであったが、収容しきれないことが判明し、現在は進路説明会、OB座談会などに使用されている。
白樺荘 群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉に存在した校外施設の収容所、「白樺荘」は中学1年の林間学校や高校1年のオリエンテーション合宿、高校3年の受験合宿時に使用されていたが近年廃止された。
年間行事
4月 入学式
オリエンテーション合宿-高1
5月 第1回定期考査
社会科見学-中1
6月 競技大会
7月 第2回定期考査
演劇鑑賞会
修学旅行(京都・奈良)-中3
林間学校-中1
8月 受験合宿-高3
9月 体育祭
文化祭
10月 第3回定期考査
修学旅行(広島・松山)-高2
11月 音楽鑑賞会
創立記念日
12月 第4回定期考査
1月 受験合宿-高3
2月 スキー教室-中1
鎌倉移動教室-中3
3月 第5回定期考査
卒業式
学園祭
体育祭と文化祭の2つを学園祭とし、文化祭は「欅祭」と称され、2日間にわたって行われる。9月の第3土曜・日曜日に行われる。
体育祭川越運動公園陸上競技場を借り切って行われる。 以前は文化祭前後の9月に行われていたが2013年より5月に移行した。欅祭(文化祭)中学2年~高校1年生の各クラス、各部活、委員会及び有志(中学1年生、高校2,3年生など)が出店している。また、父母の会主催のバザー、図書委員会による古本市などもある。その他、少林寺拳法部の演武、軽音楽部、バンド等のライブなどがある。後夜祭2日目の欅祭が終わると開催される。イケメンコンテストやマドンナコンテスト、軽音部によるライブなど数々のステージが文化祭最後を盛り上げる。打ち上げ花火で締めくくる。
部活動
部活動の参加義務はない。40を超える部・同好会が存在する。
運動部は野球部やサッカー部・テニス部などが盛んである。1992年にバレー部は関東大会に出場している。野球部は中高別々で、軟式・硬式に分かれている。2010年度には開校以来初の4回戦出場を果たすも、同試合で敗れる。少林寺拳法部は全国大会出場実績をもつ。水泳部は中高合同の活動で、同じプールを使用している。また、中学は川越市大会で優勝しており、毎年県大会に出場している。スキー部は、毎年関東大会に出場しており全国大会にも出場経験を持つ強豪校だ。
文化部は運動部よりも部活数は多いが、部員が少ないところが多い。ただ、その中でも囲碁・将棋部の団体戦4位入賞など、積極性のある部活もある。吹奏楽部は各種行事で演奏を担当し、定期演奏会も行っている。
運動部
野球部
サッカー部
バスケットボール部
バレーボール部
硬式テニス部
軟式テニス部
ハンドボール部
陸上部
水泳部
柔道部
剣道部
少林寺拳法部
スキー部
卓球部
ラグビー部
バドミントン部
ワンダーフォーゲル部
釣り同好会
文化部
化学部
生物部
物理部
地歴部
美術部
写真部
合唱部
吹奏楽部
デジタル技術研究部
演劇部
囲碁将棋部
漫画動画研究部
軽音楽部
書道部
英語研究部
鉄道研究部
新聞委員会
応援団
模型部
インターアクト
映画研究同好会
文芸同好会
格闘技観戦同好会
マジック同好会
シネマニア同好会
食文化研究同好会
クイズ研究同好会
航空研究同好会
競技かるた同好会
数学研究同好会
放送委員会
大会出場実績
高等総体(インターハイ) - 陸上部(個人)、剣道部(個人)、スキー部(個人)
全国高等学校選抜大会 - 少林寺拳法部
国体 - 剣道部(個人)
全国中学(全中) - 囲碁将棋部
関東大会 - バスケット部、バレー部、陸上部、水泳部、剣道部、少林寺拳法部、スキー部、柔道部、囲碁将棋部
エピソード
第1期生である八代英輝は、初代生徒会長を務めた。
映画「ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎音頭」(1988年)の撮影に使用された。映画内で愛徳高校の校舎として登場する。
日本テレビ「全国高等学校クイズ選手権」(高校生クイズ)において、第12回大会(1992年)、第14回大会(1994年)に埼玉県代表校となっている。
フジテレビ系列のクイズ番組「クイズ!ヘキサゴンII」(2010年11月24日放映分)に出場し優勝を果たす。
アクセス
JR川越線南古谷駅からスクールバスで約10分
東武東上線上福岡駅からスクールバスで約10分
西武新宿線本川越駅からスクールバスで約20分
西武バス「城北埼玉中学・高等学校」バス停より徒歩約10分(上福岡・南古谷駅より。本数少)
著名な出身者
八代英輝(弁護士、第1期)
須藤靖貴(作家、第1期)
林弘樹(映画監督、FireWorks代表、第11期)
対馬武志(サガン鳥栖コーチ、第15期)
藤井孝太郎(札幌テレビ放送アナウンサー、第19期)
関根彰人(競艇選手、第20期)
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足立区立千寿青葉中学校
沿革
2003年(平成15年)4月1日 - 足立区立第三中学校と足立区立第十五中学校を統合し開校。
2013年(平成23年)11月9日 - 10周年記念式典を挙行。
部活動
男子バスケットボール部
女子バスケットボール部
野球部
サッカー部
女子バレーボール部
卓球部
バドミントン部
柔道部
吹奏楽部
アート部
PC部
作法部
家庭科部
新体操部 新体操部は関東大会優勝、2012年8月21日に開催された全国大会で団体3位
女子ソフトテニス部は2012年度に廃部
学校行事
4月
入学式
5月
運動会
9月
修学旅行(H24、H25京都奈良)
10月
合唱コンクール
1月
百人一首大会
2月
職場体験
3月
卒業式
通学区域
足立区立千寿双葉小学校区 千住大川、千住寿町、千住元町、千住柳町
足立区立千寿桜小学校区 小台一丁目27番から最後まで、千住桜木一丁目、千住桜木二丁目、千住龍田町、千住緑町三丁目、千住宮元町14番から最後まで、千住中居町[1]
交通アクセス
京成電鉄京成本線千住大橋駅より850m
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さいたま市立大原中学校
沿革
1954年4月1日 - 浦和市立大原中学校として創立。
1954年6月19日 - 浦和市上木崎大原63番地に新校舎完成、移転。この日を開校記念日とする。
1984年 - 新校舎(現在地)に移転。
2001年5月1日 - さいたま市成立に伴い、さいたま市立大原中学校となる。
所在地
さいたま市浦和区大原三丁目1番11号
JRさいたま新都心駅、与野駅から徒歩25分。
周辺施設
埼玉県道35号川口上尾線(産業道路)
さいたま市立上木崎小学校
埼玉県立浦和西高等学校
大原サッカー場
埼玉県障害者交流センター
クラブ活動
運動部
野球(男)
サッカー(男)
陸上競技(男・女)
バスケット(男・女)
バレー(男・女)
卓球(男・女)
ソフトテニス(男・女)
ソフトボール(女)
剣道
柔道
文化部
吹奏楽
英語
美術
演劇
技術
大会等の記録
サッカー部 1972年8月22日 全国中学校サッカー大会優勝
1988年8月23日 全国中学校サッカー大会優勝
主な出身者
大西赤人(小説家)浦和市立木崎中学校に転校
上野良治(サッカー選手)
入山法子(女優)
藤井孝太郎(札幌テレビアナウンサー)
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城西川越中学校・城西大学付属川越高等学校
概要
高校は城西大学付属と冠しているが、設置者は学校法人城西大学ではなく、同大学の系属校としての位置づけである。もともとは城西大学の系属校として開校したが、入学してくる生徒の学力が年を追うごとに上昇するとともに生徒の他大学受験志向が強まり、1980年代後半には城西大学への推薦入学を希望する者はわずかとなった。現在では他大学への進学者が大多数を占めている。 中学校を創設する際「大学付属」を取った「城西川越中学校」の名前で開校してからは、高校のほうも「城西川越高校」と呼ぶのがむしろ普通となった(あくまで正式名称はもとのままである)。
学校周辺は田んぼが広がり自然豊かであり、正門付近にあるケヤキの木をシンボルマークとしている。
また、2008年5月より法人名が学校法人城西第二学園から学校法人城西川越学園に変更された。
特色
第88回全国高等学校選手権埼玉大会4回戦
浦和学院高校戦での硬式野球部の応援
中高共通して英語教育に最も力を入れており、1限目の前にはNHKの基礎英語シリーズやラジオ英会話に取り組む時間(15分間)が設けられている(これらは英語の単位数に加算される。また1日の授業が始まる前に、生徒が集中力を高められるような機会を提供しようという意図もあるという)。
英語科全体の考え方として、各英語教員が授業の中で特に中学生及び高1生に対して、英文を読めるようになるには以下のことが重要であると強調している。
1.文型を正確に把握する
2.直訳できる力を身につける
教育方針
建学の精神「報恩感謝(恩に報い、感謝の念を忘れない)」の念を発揚して、独立自尊・恩愛に報い、心身ともに健康で社会の発展に奉仕する人材の育成をはかる。[1]
勤勉努力、自学自習、学力の向上
コース(高校)
内進コース(中学からの内部進学生)
文理コース(外部進学生)
特進コース(外部進学生)
特選コース(外部進学生)
上記4コース制である。高校から入学した者は特選コース・特進コース・文理コースのいずれかに所属することになる。
1・2年次は他のコースの生徒同士でクラスが同じになることはないが、3年次のみ、1つのクラスに特進・文理・内進の生徒が混合する[2]。
2004年度より特進コース・文理コースともに1週の授業単位が35時間と統一された。(それまでは特進コースの方が1単位多かった。)しかし、定期試験の科目数に関しては特進コースの方が文理コースよりも多い場合もある。
2012年度入学生より、新たに「特選コース」が加わった。特選コースのみ、月曜・水曜・金曜の週3日が7時間授業となる(それ以外の生徒は金曜のみ7時間授業)。
シンボル等
校章は、羅針盤の中心に「高」(もしくは「中」)の文字を置き、その周囲にケヤキの葉を配したもので、以下の要素を持つとされる[1]。
十字の羅針 → 人生行路の指針を誤らせないための方位を示し、大志をもつ青年に注意を促す。
ケヤキの葉 → 学校の象徴で、人生に必要な次の要素をケヤキに託す。
1.ケヤキは大樹となることから、生徒に大器になって欲しい。
2.ケヤキは大家の柱となることから、国家社会の柱となるように、自らにも背骨としての柱を入れてほしい。
また、正規の校章とは別にJosai Kawagoe のそれぞれ頭の文字をとった「JK」がシンボルマークとなっており、制服のワイシャツの胸ポケット部分にはそのマークのワッペンが付いている。この他、学校の昇降口前に高く立派な欅が立っており、欅もまたこの学校のシンボル的な存在である。
2000年頃には有志の生徒にイラスト案を募り、それをもとに「けやき君」というマスコットキャラクターができた。 現在ではスクールバスの一部の車両にそれが大きくペイントされている。さらに近年、「けやき君グッズ」と称され、けやき君に関する菓子・文房具が校内行事や地元イベント時に販売されている。
部活動・同好会
☆は高校のみ。
以下のものに加え、部活動・同好会ではないが、中学・高校生徒会と有志によって活動されている有志団体和太鼓「欅」(けやき、2005年度結成)がある。体育祭・文化祭等の校内行事での演奏のほか、以外にも校外でのボランティア活動・公演を行っており、全国大会にも出場(2007年度、2008年度、2010年度)を果たしている[3]。 また、陸上競技部が連続で関東大会に出場し好成績を収めている。さらに、軟式野球同好会も2011年から3年連続で関東大会に出場(内、2013年の秋季大会では初優勝)している。
文化部
コンピューター部
吹奏楽部
鉄道研究会
美術部
科学部
囲碁・将棋部
英語部 ☆
合唱部 ☆
物理部 ☆
古典ギター同好会 ☆
数学研究会 ☆
相撲研究会 ☆
歴史研究会 ☆
エコカー部
セパタクロー研究同好会☆
運動部
サッカー部
テニス部
ラグビー部
柔道部
剣道部
野球部
陸上競技部
ハンドボール部
バスケットボール部
卓球部
山岳部 ☆
ソフトテニス部 ☆
バドミントン部 ☆
バレーボール部 ☆
サイクリング同好会 ☆
軟式野球同好会 ☆
2011年秋季関東大会出場
ゴルフ同好会 ☆
沿革
1971年(昭和46年)12月 - 城西大学付属川越高等学校 設立認可。
1972年(昭和47年)4月 - 城西大学付属川越高等学校 開校。
1972年(昭和47年)6月 - 開校記念式典 挙行。
1974年(昭和49年)4月 - 体育館 竣工。
1975年(昭和50年)3月 - 第1回卒業式 挙行。
1979年(昭和54年)12月 - 生徒ホール兼食堂 竣工。
1980年(昭和55年)10月 - クラブ棟・合宿棟 竣工。
1982年(昭和57年)2月 - 図書館棟 竣工。
1983年(昭和58年)11月 - 武道館兼合宿棟 竣工。
1990年(平成2年)8月 - 第2グラウンド 竣工。
1991年(平成3年)9月 - 東館(特別教室・ミーティングルーム・トレーニングルーム等) 竣工。
1992年(平成4年) 4月 - 城西川越中学校 開校。
1993年(平成5年) 9月 - CAI(コンピュータ)教室 設置。
1995年(平成7年) 4月 - 2コース制(特進・文理)導入。
1995年(平成7年)12月 - 第3グラウンド 竣工。
1997年(平成9年) 2月 - 推薦入試制度 導入。
1999年(平成11年)9月 - PC(コンピュータ)教室 設置。
2000年(平成12年)4月 - 第4グラウンド 竣工。
2005年(平成17年)4月 - 新音楽室 設置。
2011年 (平成23年) 12月 - 新校舎(新南館) 竣工。
2012年 (平成24年) 4月 ‐本館改装工事 竣工。
文化祭(けやき祭)
城西川越の文化祭は、中・高合同で実施する。
中学は学年ごとにテーマが決まっており、そのテーマに沿って文化祭に参加し、高校生は各クラスごとに参加、また部活で参加する団体もある。
その他
2010年度より、制服のデザインが変更された。
「城西体操」と呼ばれる独自の体操があり、体育の授業で準備運動として行われる。
2012年に現、南館脇に新校舎が完成した。
著名な卒業生
斉藤直哉 - 元プロ野球選手、阪神タイガース所属
佐久間悟 - ヴァンフォーレ甲府ゼネラルマネージャー
スタパ齋藤 - ライター
松本光司 - 漫画家
宮島大輔 - NHK仙台放送局アナウンサー
村山耕一 - 宮崎放送アナウンサー
飯野賢治(中退) - 元ゲームクリエイター
MasahiRo - (ボヘミアン・アーティスト ヴァイオリニスト)
前田健 - (野球専門トレーニングコーチ、元阪神タイガーストレーニングコーチ)
交通
川越駅(JR川越線・東武東上線)・本川越駅(西武新宿線)より 東武バス川越02系統「城西高校」「八幡団地」「東松山駅」行きまたは
東武バス川越03系統「鴻巣駅」「鴻巣免許センター」「新荒子」行き
にて15分から25分乗車、「城西高校」バス停で下車して徒歩6分。
桶川駅(JR高崎線)より東武バス川越04系統「川越駅」行きにて20分から30分、「二本松」バス停留所下車。
川越駅・本川越駅・桶川駅よりスクールバスあり。
自転車を利用する場合の所要時間は 川越駅:20分から35分
本川越駅:15分から30分
徒歩を利用する場合の所要時間は 本川越駅:約1時間4分
関連校
学校法人城西大学 城西大学
城西国際大学
城西短期大学
学校法人城西学園 城西大学附属城西中学校・高等学校
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足立区立千寿桜堤中学校
沿革
2005年4月1日 - 足立区立第二中学校及び足立区立第十六中学校を統合し、現在地に開校。
所在地・交通
120-0022 東京都足立区柳原2-49-1
JR常磐線・東武伊勢崎線・東京メトロ千代田線・日比谷線・つくばエクスプレス北千住駅東口より徒歩10分
東武伊勢崎線牛田駅より徒歩9分
京成本線京成関屋駅より徒歩9分
校歌
テレビドラマ「3年B組金八先生」のロケ地でもある足立区立第二中学校が統廃合された折、2004年12月「千寿桜堤中学校」の校歌として発表された。作詞は同ドラマの脚本家の小山内美江子。作曲は主人公の坂本金八先生役を演じる武田鉄矢が率いるフォークソングバンド 「海援隊」の千葉和臣が手がけた。
ドラマが縁で、地域や父母らで結成している「千住東地区統合地域協議会」のメンバーと、小山内美江子とが長年交流していたことから実現した。
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国分寺市立第五中学校
沿革
1981年(昭和56年)2月2日 - 国分寺市立第五中学校開校事務所設置。
1981年(昭和56年)4月6日 - 開校。
学校教育目標
自ら考え 判断できる人間になろう
心身ともにたくましい人になろう
心豊かな思いやりのある人になろう
互いに協力し 創造できる人間になろう
部活動
全部で13ある。吹奏楽部は3年連続金賞のち、4年連続銀賞の経歴を持つ(2014年07月20日現在)。また2013年には始めディズニーパフォーマンスプログラムに合格し、ディズニーランドでの演奏を果たしている。 サッカー部は2010年、都大会で準優勝した。そのほかにも支部大会優勝などの功績を残している。
運動部 文化部
サッカー部 吹奏楽部
野球部 美術部
陸上部 パソコン部
テニス部 文芸部
バスケットボール部 家庭科部
女子バレー部 茶道部
卓球部
校区
戸倉一丁目の14番地から32番地
戸倉二丁目から四丁目の全域
富士本一丁目の全域
新町一丁目から三丁目の全域
並木町一丁目から三丁目の全域
北町一丁目から五丁目の全域
交通機関
JR中央線「国立」駅よりバス「戸倉循環」にて7分「新町」下車徒歩5分
西武国分寺線「恋ヶ窪」駅下車徒歩15分
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足立区立第一中学校
沿革
1947年4月1日 - 足立区立第一中学校として千寿第八小学校内に開校。
1949年6月9日 - 千住河原町に独立校舎落成。
1969年5月19日 - 完全給食開始。
2002年4月1日 - 足立区学校選択制導入。
2003年2月28日 - 一中さよなら校舎、講演会、チェロ演奏会。
2003年4月1日 - 旧千寿小学校の仮校舎へ移転。
2005年7月1日 - 新校舎落成式。
部活動
運動部
バスケットボール部
バレーボール部
バドミントン部
陸上競技部
柔道部
卓球部
サッカー部
剣道部 ※2011年度発足
文化部
吹奏楽部
美術部
英語部
調理部
茶道部
華道部
パソコン部
将棋部
科学部
主な学校行事
山中湖自然教室(1年次10月)
※現在は廃止され、新潟県魚沼自然教室(1年次6月)
鎌倉遠足(2年次12月)
京都・奈良修学旅行(3年次6月)
職場体験学習(2年次7月)
体育祭(5月)
区連合陸上競技大会(9月)
区連合音楽会・展覧会(11月)
三年生を送る会(3月)
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さいたま市立南浦和中学校
沿革
1947年(昭和22年)4月 - 浦和市立六辻小学校内に、浦和市立六辻中学校として創立
1947年(昭和22年)5月2日 - 開校、この日を開校記念日とする
1955年(昭和30年)3月 - 校名を浦和市立南浦和中学校と変更
1957年(昭和32年)9月 - 根岸(現在のさいたま市文化センター所在地)へ移転
1957年(昭和32年)10月 - 設立10周年式典
1972年(昭和47年)3月 - 現在地へ移転
1997年(平成9年)2月 - 50周年記念式典
2001年(平成13年)5月1日 - 市の合併に伴い現校名に改称
2006年(平成18年)11月 - 60周年記念式典
学校教育目標
「日に新た 心豊かに たくましく」
目指す生徒像
健康で安全な生活に配慮する生徒
困難にくじけず、最後までやりぬく生徒
目標をもって、授業に真剣に取り組む生徒
思いやりの心、素直な心をもつ生徒
きまりや約束を守る生徒
校区
さいたま市辻南小学校・さいたま市立辻小学校・さいたま市立南浦和小学校・さいたま市立文蔵小学校の各校区を校区としている。
アクセス
JR京浜東北線南浦和駅から国際興業バス戸田車庫行き「浦和南高校」バス停下車すぐ
JR埼京線北戸田駅下車 徒歩10分
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早稲田実業学校初等部・中等部・高等部
概要
通称は「早実」(そうじつ)・「実業」。早稲田大学の系属校である。理事長は早稲田大学総長の鎌田薫(2010年11月より)。学校長は早稲田大学教育・総合科学学術院教授の藁谷友紀。初等部校長は橋詰敏長。
小中高一貫教育を行い、早稲田大学への推薦入学制度がある。大学への推薦枠は他の附属・系属校とは別に独自の枠として定めている。高等部から入学した外部進学の生徒が中等部(または初等部)から入学した内部進学の生徒と一緒に高等部第1学年からクラスが混合される併設型中高一貫校である。
校名は実業学校であるが、現在は普通科のみで実業教育は施していない。「早稲田実業高校」の表記が散見されるが誤記である。
沿革
1901年(明治34年)、早稲田大学の前身である東京専門学校が大学としての基礎を確立したころ、創立者である大隈重信の教育理念を実現し、その建学精神に基づいた中等教育を目指して大隈重信の周囲の者達により設立された。
「豊かな個性と高い学力をもち、苦難にうち勝つたくましい精神力を兼ね備えた人物」を育成するために、校是として「去華就実」(華やかなものを去り、実に就く)を、校訓として「三敬主義」(他を敬し、己を敬し、事物を敬す)を創立当初から掲げてきた。また、多くの旧制中等教育学校が5年制をとる中にあって、独自の6年制教育を行っていた。
大正期に入るとスポーツ活動の充実を図り、質実剛健の校風が確立されていった。その後、戦災で校舎は廃墟となったが、関係者の尽力により復興を果たし、第二次世界大戦後に復興した。
2001年に創立100周年を迎え、それまで早稲田鶴巻町にあったキャンパスを国分寺に移転し、中学部の呼称を中等部に改称した。さらに2002年4月からは、早稲田大学の系列校では初めて中等部、高等部とも男女共学を実施、また、初等部を開設する。
学校創立前後の経緯については岩波文庫『湛山回想』で石橋湛山による記述がある。
年表
1901年 - 早稲田大学の創設者たちにより、早稲田実業中学(3年制各種学校)が早稲田中学校の校舎内に開校。
1902年 - 早稲田実業学校と改称。甲種商業学校に編成され、修業年限を予科1年・本科4年・専攻科2年に変更。大成会発足。
1903年 - 早稲田大学の構内に校舎を構える。
1904年 - 修業年限を本科3年・専攻科2年に変更。
1907年 - 早稲田鶴巻町に校舎を移す。修業年限本科4年に変更・専攻科廃止。
1908年 - 予科2年を設置。
1912年 - 夜間部(2年制各種学校の扱い)設置。
1913年 - 校歌を制定。
1917年 - 早稲田騒動により、大学の傘下から離れる。
1925年 - 本科6年制に変更(予科廃止)。夜間部も4年制に延長(同時に甲種商業学校に昇格)。
1926年 - 早稲田商科学校(2年制各種学校)を併設。
1928年 - 昼間部を第一本科・夜間部を第二本科に改める。
1929年 - 早稲田商科学校を3年制に変更。
1933年 - 第二本科の修業年限を5年に変更。
1937年 - 武蔵関にグラウンド造成。
1942年 - 修業年限を5年に短縮。
1943年 - 修業年限4年に短縮。
1944年 - 早稲田実業学校としての生徒募集停止。替わりに早実工業学校を設置(翌年廃止)。早稲田商科学校廃止。
1945年 - 戦時教育令を受けて授業停止。空襲により校舎焼失。終戦直後は、早稲田中学校校舎の借用や青空教室などで授業を再開。
1947年 - 学制改革により新制の早実中学校設置(翌年中学部に改称)。
1948年 - 学制改革により第一本科を中学・高等部の6年制へ、第二本科を4年制の第二高等部(従来通り夜間部)に改編。
1957年 - 応援歌「若き力」・「伝統の旗」・「勝利の歌」発表。
1961年 - 大成会、新しく発足した生徒会に包括される。
1963年 - 「早稲田実業学校の早稲田大学系列下編入に関する合意書」調印。創立時の形態に戻り、早稲田大学系列に復帰。第二高等部廃止[3]。
1964年 - 普通科を設置。
1966年 - 2学期制に移行。
1975年 - 駒ヶ根校舎およびグラウンド完成。
1999年 - 武蔵関グラウンド閉鎖。
2001年 - 中学部を中等部に改称。国分寺市本町の新校舎に移転。創立百周年記念歌「ワセダ輝く」発表。
2002年 - 商業科募集停止。男女共学を実施。初等部開校。
学校施設
国分寺キャンパス(本部)
1号館 - ホール・普通教室・特別教室
2号館 - 体育館・食堂・ラウンジ・普通教室・特別教室
3号館 - 図書館・普通教室・特別教室
4号館 - 屋内運動場・部室・弓道場
5号館 - 初等部校舎(普通教室・特別教室)
6号館 - 体育館(初等部用)
その他、グラウンド(中・高等部と初等部別に設置)や屋外プールなどが用意されている。
初等部にはトラックやサッカーコートなどがある
校舎移転前は新日本製鐵の関連施設があった。校舎も新日本製鐵が「環境にやさしい鉄骨造エコスクール」のコンセプトの下に設計・建設した[4][5]。
駒ヶ根校舎
長野県駒ヶ根市に位置する。宿泊機能を備え、新入生のオリエンテーションや各クラブの合宿に利用される。2008年に建て替え工事が完成。
王貞治記念グラウンド
東京都八王子市南大沢にある。主に硬式野球部が練習・試合に使用する。2004年より使用。
過去に存在した施設[編集]
旧校舎(早稲田鶴巻町キャンパス)
1907年4月 - 2001年3月まで使用された。旧制早稲田中学校の寄宿舎跡地を受け継いだものであった。現在は早稲田大学の120号館として、研究開発センター・大学史資料センターが置かれている他、大学の授業に利用される。
武蔵関グラウンド
東京都練馬区に所在した。1937年より運動場として使用されたが、1999年に、国分寺キャンパスへの移転に伴い閉鎖される。硬式野球部員だった頃の王貞治や荒木大輔らも汗を流した場所であった。戦時中は食糧増産のために生徒が野菜を栽培していたことがある。現在、グラウンド跡にはマンションが建ち、その近くには「早実グラウンド記念公園」が整備されている。
部活動
早稲田実業学校の部活動の起源は1902年に発足した「大成会」に求めることができる。2代目校長天野為之が「大器晩成」の語より命名し、「学生相互の親睦を計り知識の交換をなし体育を奨励し校風を発輝する」ことを目的に発足した。そのため、古くから体育・文化系を問わずクラブ活動が盛ん。
硬式野球部は全国高校野球大会(甲子園)に出場45回(夏の選手権大会は第1回大会から出場して27回、春の選抜大会も第1回大会から出場し18回)。春夏併せての甲子園通算成績は58勝44敗。優勝は1957年春大会、2006年夏の大会各1回。
バスケットボール部もインターハイ11回、春の選抜・ウィンターカップ4回出場の名門である。1971年インターハイと1974年春の選抜では準優勝を果たしている。直近で出場した全国大会は2003年の第39回ウィンターカップで、1回戦金沢高校に84 - 100で敗戦。
硬式テニス部(男子団体)は全国選抜高等学校テニス大会の第1回大会では優勝を果たしている。
硬式野球部
第89回夏の大会・阪神甲子園球場へ優勝旗返還のために開会式に参加した早実・川西啓介主将
早稲田実業学校高等部硬式野球部は全国高校野球大会に計45回出場している。春の選抜高校野球大会にはこれまで18回出場し、1957年の第29回大会では王貞治投手(現・プロ野球コミッショナー特別顧問)が投打に活躍し、決勝戦で高知商業を5-3で下し初優勝している。
夏の全国高校野球選手権大会にはこれまで27回出場している。2006年の第88回大会では決勝戦で南北海道代表の駒大苫小牧を引き分け再試合で4-3で下し初優勝を果たした(第88回全国高等学校野球選手権大会決勝を参照)。優勝投手は斎藤佑樹。
夏の大会は学校を移転したことや、東京都の東西地区割りが変更されたこともあり両地区から出場。地区予選で旧東京都大会・東東京・西東京ブロックの3大会での優勝は史上初である。
2006年ののじぎく兵庫国体では決勝戦では駒大苫小牧と再び対戦し、1-0で駒大苫小牧を下し29年ぶり2度目の優勝を果たし、夏の甲子園大会・国体の2冠を達成した。
第1回全国中等学校優勝野球大会(1915年・大正4)に出場した学校のうち、第1回大会で優勝した京都二中(現鳥羽)、大正期に連覇した和歌山中(現桐蔭)に続いて、第二次世界大戦後では初の深紅の優勝旗を持ち帰った学校となっている。
「日本の宇宙開発発祥の地」の記念碑
国分寺市が日本の宇宙開発発祥の地であることを伝承するために、2005年「日本の宇宙開発発祥の地顕彰会」が発足し2006年同校校門前に記念碑が建立された。糸川英夫のペンシルロケットの実験から50周年を記念したもので、早稲田実業学校の校友会や市の観光協会、商工会などが参加。記念碑ペンシルロケットの形をイメージした1.3mのもので、実験をする糸川教授の姿が刻まれた。除幕式の後に JAXA の的川泰宣・宇宙教育センター長の講演と、糸川教授に50年間チェロを教えた松下修也のチェロコンサートが開催された[6]。タイムカプセルも設置された。2012年糸川英夫博士生誕百周年を記念し、教職員らがペンシルロケット超音速実験を行った。
校賓
王貞治
小室哲哉
出身者
政財界
松永東 - 衆議院議員 元衆議院議長 1907年卒
高瀬荘太郎 - 一橋大学学長、参議院議員 元文部大臣 1909年卒
菊池義郎 - 衆議院議員・勲一等瑞宝章受章 1911年卒
吉聖運 - 元韓国済州道知事 1933年第二本科卒
木村茂 - 元千代田区長 1942年卒
福永正通 - 東京メトロ副社長 元東京都副知事 1960年卒
鎌田泉 - 白元創業者 1923年中退
酒井億尋 - 荏原製作所元社長 1926年卒
高田亮一 - 日野自動車工業元会長 1927年卒
本吉敏男 - アシェット婦人画報社元会長 1942年卒
重光武雄(辛格浩) - ロッテグループ総帥 1946年卒
岡部稔 - 岡部ホテルグループ社長 1960年卒
池田哲雄 - ベースボールマガジン社社長 1976年卒
大多亮 - フジテレビジョン執行役員クリエイティブ局長 1977年卒
前澤友作 - スタートトゥデイ創業者
杉本和巳 - 衆議院議員(民主党)、元みずほフィナンシャルグループ広報部参事役 1979年卒
菅原一秀 - 衆議院議員(自民党) 1981年卒
萩生田光一 - 衆議院議員(自民党)1982年卒
平将明 - 衆議院議員(自民党)、日本振興銀行役員
斎藤健 - 元埼玉県副知事、元経産官僚 / 中等部まで
学者・教育者
上野安紹 - 宇都宮学園創立者 1906年専攻科卒
細野軍治 - 国際政治学者 1915年卒
齊藤金作 - 刑法学者・早稲田大学法学部教授 1920年中退
林郁彦 - 工学者・元早稲田大学理工学部教授・現名誉教授 1943年卒
金貞泰 - 元韓国政府施設評価委員・教授 1945年卒
小林威雄 - 経済学者 1945年卒
三島博信 - 医学博士・教授 1945年卒
村山元英 - 千葉大学名誉教授・元中京大学教授 1954年卒
山下精彦 - 医学博士・教授 1958年卒
北野宏明 - ソニーコンピュータサイエンス研究所取締役副所長 1979年卒
三浦つとむ - 言語学者
文化芸能
竹久夢二 - 画家・詩人 1905年専攻科中退
林武 - 画家・教授 1910年中退
村野次郎 - 歌人・村野四郎の兄 1913年卒
藤原義江 - オペラ歌手 1914年中退
明石潮 - 俳優 1915年卒
高橋半 - 作曲家 1924年中退
一龍斎貞丈(5代目)-講談師 1926年中退
清水三朗 - 小説家 1936年卒
堀秀彦 - 脚本家・演出家 1943年卒
都筑道夫 - 小説家・翻訳家 1946年中退
保田勝久 - 陶芸家 1948年卒
オグラトクー(小倉得宇) - 漫画家 1950年卒
内海清美 - 和紙彫塑作家 1956年卒
青山哲也 - 俳優 1959年卒
テリー伊藤 - 番組プロデューサー・タレント 1968年卒
大口広司 - テンプターズ 1968年卒
樋口淳一 - NHKアナウンサー 1970年卒
相羽高徳 - アートディレクター 1972年卒
ハル常住 - ゴルフジャーナリスト 1974年卒
小室哲哉 - ミュージシャン・音楽プロデューサー 1977年卒
岩上安身 - フリージャーナリスト・ノンフィクション作家
大迫一輝 - 陶芸家 1978年卒
向坂樹興 - フジテレビアナウンサー 1978年卒
南柱根 - 脚本家 1981年卒
松本晃彦-作曲家 1981年卒
水谷彰宏 - NHKアナウンサー 1983年卒
野島卓 - フジテレビアナウンサー 1985年卒
斉藤一美 - 文化放送アナウンサー 1986年卒
田﨑竜太 - 映画監督 1983年卒
清水次郎 - 朝日放送アナウンサー 1990年卒
二瓶晃 - 現代美術家 1991年卒
石井輝男 - 映画監督 中退
中上雅巳 - 俳優・元いいとも青年隊 中退
松本龍 - 東日本放送アナウンサー
三浦康嗣 - ミュージシャン ポップユニット、□□□(クチロロ)のメンバー
南波一海 - ミュージシャン ポップユニット、□□□(クチロロ)のメンバー
中尾隆聖 - 俳優、声優
平尾仁 - 俳優、声優
日高光啓 - 歌手(AAA ・ Mother Ninja)
渡辺雄介 - 脚本家 1998年卒
吉田一郎 - ミュージシャン 2001年卒
中村太地 - 将棋棋士
スポーツ
プロ野球
岡田源三郎 - 元プロ野球選手、明治大卒・元明大野球部監督、野球殿堂
西池秀豪 - 元プロ野球選手
手塚勝巳 - 元プロ野球選手、元俳優
安永正四郎 - 元プロ野球選手 1934年卒
日野弘美 - 元プロ野球選手 1933年卒 明治大卒
宮下義雄 - 元プロ野球選手 1934年卒
太田健一 - 元プロ野球選手 1937年卒
望月潤一 - 元プロ野球選手 1937年卒
小林善一郎 - 元プロ野球選手 1937年卒
星野正男 - 元プロ野球選手
宮下信明 - 元プロ野球選手 1943年卒
小田切茂造 - 元プロ野球選手 中央大卒
荒川博 - 元プロ野球選手・監督 1949年卒 早大卒
海部和夫 - 元プロ野球選手 1949年卒
田中淳二 - 元プロ野球選手
佃明忠 - 元プロ野球選手 1954年卒
齋藤精宏 - 元プロ野球選手 1954年卒 早大卒
榎本喜八 - 元プロ野球選手 元祖「安打製造機」 1955年卒
河西宏和 - 元プロ野球選手 1955年卒
徳武定之 - 早慶六連戦で主将・四番 元プロ野球選手・千葉ロッテマリーンズ・中日ドラゴンズ代行監督 1957年卒 早大卒
醍醐猛夫 - 元プロ野球選手 1957年卒
王貞治 - 元プロ野球選手・元福岡ソフトバンクホークス監督、野球殿堂 1959年卒
河原田明 - 元プロ野球選手 1959年卒
相沢邦昭 - 元プロ野球選手 1958年卒
醍醐俊光 - 元プロ野球選手
西田暢 - 元プロ野球選手 早大卒
内田桂一 - 元プロ野球選手
金村東 - 元プロ野球選手 1968年卒
大矢明彦 - 元プロ野球選手・元横浜ベイスターズ監督 1966年卒 駒沢大卒
荒川尭 - 元プロ野球選手、「右の王」・東京六大学野球通算本塁打4位 1966年卒 早大卒
石渡茂 - 元プロ野球選手 1971年卒 中央大卒
田村登志親 - 元プロ野球選手 中央大卒
田野倉利行 - 元プロ野球選手 1973年卒
有賀佳弘 - 元プロ野球選手、東京六大学野球首位打者 1976年卒 早大卒
川又米利 - 元プロ野球選手・解説者 1979年卒
荒木大輔 - 元プロ野球選手・投手コーチ 1983年卒
石井丈裕 - 元プロ野球選手 1983年卒 法政大卒
板倉賢司 - 元プロ野球選手 1984年卒
上福元勤 - 元プロ野球選手 1984年卒。2007年逝去
斎藤佑樹 - 第88回全国高等学校野球選手権大会優勝投手(春夏共に引き分け再試合を経験) 2007年卒 早大卒。
塚田晃平 - プロ野球選手 2008年卒 早大卒。
アマ野球
水上義信 - 六大学野球草創期の早大野球部投手 1925年卒 早大卒
高橋外喜雄 - 戦前の甲子園出場時の名投手 1927年卒、戦死、早大卒
本橋精一 - 戦前の甲子園出場時の名投手、戦死、早大卒
島津雅男 - 戦前の甲子園出場時の投手、早実OB会名誉会長、元学習院大野球部監督(東都リーグ初優勝)。1932年卒
宮井勝成 - 元早実野球部監督、早実OB会会長、中央大学硬式野球部総監督。1946年卒、中央大卒。
和田明 - 元早実野球部監督 1955年卒
中屋恵久男 - 元社会人野球選手、学生日本代表。元西武・石毛宏典のライバル。 1975年卒 早大卒
清水隆一 - 元熊谷組監督 1978年卒 早大卒
弓田鋭彦 - 甲子園出場時投手、ベスト8 1978年卒 早大卒
山岡靖 - 甲子園出場時投手 1979年卒 早大卒
荒木健二 - 早慶戦で山岡靖・広岡資生(姫路東)との三者連続ホームラン。荒木大輔の兄 1979年卒 早大卒
阿久根謙司 - 東京フットボールクラブ(FC東京)代表取締役社長、元東京ガス監督 東京六大学野球ベストナイン2回 1982年秋早慶戦で優勝を決める決勝打 のち東京ガスで活躍 1980年卒 早大卒
和泉実 - 現早実野球部監督 2006年度全国高等学校野球選手権大会で全国制覇 1980年卒 早大卒
栗林友一 - 1980年度全国高等学校野球選手権大会準優勝時主将 1981年卒 中央大卒
小山寛陽 - 元関東一高監督 1982年卒 早大卒
小沢章一 - 元千葉英和高野球部監督、2006年逝去。 1983年卒 早大卒。
松本達夫 - 日本テレビチーフプロデューサー。捕手として荒木とバッテリー組む。1983年卒 早大卒。
その他
マシオ駒 - 元プロレスラー
藤野素宏 - プロバスケットボール選手 日本人3人目のABAプレイヤー、早大卒
倉石平 - 元バスケットボール選手 早大コーチ
木下直哉 - バスケットボール選手、2003年度ウィンターカップ出場時の主将、豊田合成スコーピオンズ所属、2004年卒、早大卒
原田正彦 - 元早大競走部選手、2002年箱根駅伝2区区間賞、1998年卒、早大卒
打矢二郎 - 元早大ラグビー部フランカー、1989年度大学選手権優勝 1985年卒 早大卒
古賀聡 - 元Jリーガー、元Jリーグ鹿島アントラーズ所属、現:早稲田大学ア式蹴球部監督 1988年卒 、早大卒
外池大亮 - 元Jリーガー、元Jリーグ湘南ベルマーレ在籍、1993年卒、早大卒
佐々木崇 - 元Jリーガー、元Jリーグガンバ大阪在籍、1993年卒、早大卒
島村毅 - Jリーガー、湘南ベルマーレ在籍、2004年卒、早大卒
常盤聡 - Jリーガー、ギラヴァンツ北九州在籍、2006年卒
田中言 - 早稲田大学競走部選手、2011年卒、早大在学
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星野学園中学校・星野高等学校
設置教育組織
星野学園中学校(共学) 理数選抜クラス
進学クラス
星野高等学校・女子部 III類(特別選抜)コース
文理特進コース
英語特進コース
文理・英語コース
星野高等学校・共学部 S類コース
α選抜コース
βコース
総合教養コース
星野高校はコースによってクラス分けされる。女子部のⅢ類コース、文理特進コースは共学部のS類コース、α選抜コースと同一のカリキュラム、レベルで授業が行われる。
1年次は、入試の成績、2年次からは志望大学進学に必要な受験教科、テストの成績順、偏差値順、選択教科によりクラス分けされる。
レベルごとに実施されるテストも異なり、成績も同じテストを受けるクラスごとにでる順位を学年順位とする。
女子部は7前後の数のクラスが、共学部は10前後の数のクラスが存在する。
女子部のクラス名は算用数字、共学部はアルファベットで同様のクラス編成。
共学部と女子部
星野学園中学校からの内部進学者と高校からの募集による入学者の両方がいるが、星野学園中学校からの内部進学者はすべて共学部に進学する一方で、高校からの入学者は女子生徒の場合女子部または共学部を、男子生徒の場合は共学部を受験することとなる。
沿革
1897年(明治30年) - 星野塾川越市に設置認可、設置者兼塾長星野りち
1953年(昭和28年) - 学校法人星野学園認可、理事長兼校長星野三郎就任
1964年(昭和39年) - 星野女子高等学校として開校
2000年(平成12年) - 星野学園中学校開校
2003年(平成15年) - 星野女子高等学校を星野高等学校に改称
進路
卒業生の97%が現役で難関国公立をはじめとする四年生大学へ進学し、近年は医歯薬看系の大学への進学が目立つ。
指定校推薦枠が多数あるが、推薦枠を使わず実力で受験する生徒が多い。
クラブ活動
クラブ活動は全員加入制。
クラブ活動は女子部、共学部の区別はなく、共同で活動する。クラブによっては校舎間を移動する場合もある。
文化祭(星華祭)では、中学はクラス・学年単位、高校はクラブ単位での行動が基本。
ソフトボール部が強く、インターハイなど全国大会での優勝・準優勝の記録を持っている。
音楽部、箏曲部、吹奏楽部マーチングバンド、百人一首部も全国大会連続出場の記録を持ち、金賞の常連校である。
弓道部、新体操部、ソフトテニス部、女子バスケットボール部、バトン部では個人、団体での全国大会出場者も数多い。
新聞部、放送部、書道部は頻繁に賞を受賞している。
文化祭
通称星華祭と呼ばれ、小学生・中学生はクラス単位で発表(夏の校外学習がメイン)、高校生は部活単位で、文化部は展示・発表を、運動部は模擬店を行う。
来場者数は、毎年1万5千名前後にも及ぶ。
施設
末広キャンパス(第一校舎) 第1体育館
大講堂・小講堂
図書館(蔵書数約5万冊)
礼法室 等
石原キャンパス(第二校舎) 星野記念講堂
第2体育館・第3体育館
室内温室プール(床可動式)
星野ドーム(全天候型グラウンド)
第1総合グラウンド・第2総合グラウンド
テニスコート(5面、ナイター施設あり)
天文台(ドーム型、箱型)
図書館(検索用パソコン、蔵書数約2万冊)
多目的ホール(エブリア)
※通常授業は、高校女子部は末広町の第一校舎、中学・高校共学部は石原町の第二校舎を使用するが、中学、高校(女子部・共学部)で校舎を共有するため、いずれの生徒もクラブ活動や図書館の閲覧等において第一校舎、第二校舎双方の施設を利用することができる。
交通
高校女子部は川越市駅(東武東上線)より徒歩通学か、熊谷駅(JR高崎線)、入間市駅(西武池袋線)、宮原駅(JR高崎線)、東大宮駅(JR東北本線)からスクールバスを利用。
中学および高校共学部は川越駅(JR川越線、東武東上線)、本川越駅(西武新宿線)、熊谷駅(JR高崎線)、入間市駅(西武池袋線)、宮原駅(JR高崎線)、東大宮駅(JR東北本線)からスクールバスを利用。
各駅からのスクールバスによる所要時間 川越駅 約20分
本川越駅 約15分
入間市駅 約40分
宮原駅 約45分
東大宮駅 約55分
熊谷駅 約60分
著名な出身者
宇津木妙子 - ソフトボール選手・監督
佐藤理恵 - ソフトボール選手(ソフトボール日本代表)
藤原麻起子 - ソフトボール選手
佐藤美保 - 陸上競技選手
富野幸緒 - 振付家・ダンサー(富野由悠季の次女)
山元香里 - フリーアナウンサー
金子梨沙 - NHKテレビ体操アシスタント
清水八重子 - 元バスケットボール選手
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足立区立第二中学校
沿革
1947年4月1日 - 開校。当初は本校を旭小学校内、分校を柳原小学校内に設置される。
1950年9月11日 - 千住曙町(閉校までの場所)に木造校舎が完成する。
1959年1月1日 - 校歌が完成する(作詞:石田波郷、作曲:渡邊浦人)。
1963年5月10日 - 体育館が完成する。
1963年5月6日 - 学校給食を開始する。
1971年頃 - 屋上プールなどを備える鉄筋校舎が完成する。以降、閉校までほぼ同じ姿だった。
2005年3月31日 - 閉校。同時期には閉校式・お別れ会も催され、生徒・卒業生・地域住民などが別れを惜しんだ。 閉校後しばらくはそのままの状態となっていたが、一時は校庭の貸出利用も行っていた。のちにクレーン等の大型重機が入り施設の改修や増設工事が行われ、2007年(平成19年)4月に東京未来大学が同地に開校した。
校章
はばたいた翼の中に「中」の文字をあしらったシンプルなデザインだった。外側の羽は鳩の羽をイメージしたもので、「鳩のように礼儀正しく責任感の強い生徒になれ」との意味が込められている。
交通
東武伊勢崎線 堀切駅より徒歩3分
東武伊勢崎線 牛田駅より徒歩8分
京成本線 京成関屋駅より徒歩8分
撮影地として
『3年B組金八先生』の撮影は廃校後に製作されたスペシャル11『未来へつなげ 3B友情のタスキ』(2005年12月30日放送)まで使われたほか、東京未来大学への転用にともなう改修工事が着工されるまでの間は様々な映像作品の撮影に使用された。
一例として、バラエティ番組『水10!ワンナイR&R』内で放送されたドラマ『もんじゃろ学園物語』のオープニング映像では当校が使用されており、3年B組金八先生を模した演出がなされている。このほか、コブクロの楽曲『桜』のプロモーションビデオや、テレビドラマ『アンフェア』などでも使用されている。
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PR: 商店街の活性化を応援します!-政府ネットTV
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東京電機大学中学校・高等学校
沿革
1907年9月 - 私立電機学校を創立。
1939年4月 - 東京電機工業学校設置。
1944年4月 - 東京電機工業学校を電機第一工業学校と改称、電機第二工業学校設置。
1948年4月 - 第一・第二工業学校を統合して電機学園高等学校を設置。場所は千代田区神田錦町。
1956年2月 - 電機学園高等学校を東京電機大学高等学校と改称。
1965年3月 - 千代田区神田錦町から文京区後楽に移転。
1992年4月 - 文京区後楽から小金井市に移転。
1996年4月 - 中学校を開校し、東京電機大学中学校・高等学校となる。
1999年4月 - 中学校、高校とも男女共学に。
部活動
高等学校
文化部
鉄道研究部
科学部
歴史研究部
コンピュータ部
写真部
吹奏楽部
放送部
無線部
物理同好会
シネマ同好会
電子同好会
TTC同好会
漫画美術研究同好会
バンド愛好会
茶道愛好会
将棋愛好会
運動部
陸上競技部
バスケットボール部(男・女)
バレーボール部(男・女)
ソフトテニス部
卓球部
サッカー部
野球(硬式)部
ゴルフ部
ラグビー・フットボール
アメリカン・フットボール部
バドミントン部
柔道部
剣道部
男子硬式テニス部
女子硬式テニス部
自転車競技部
少林寺拳法部
女子ソフトボール部
オリジナルダンス部
水泳同好会
チアリーディング愛好会
中学校
文化部
鉄道研究部
科学部
歴史研究部
コンピュータ部
写真部
吹奏楽部
放送部
無線部
物理同好会
シネマ同好会
TTC同好会
漫画美術研究同好会
茶道愛好会
将棋愛好会
文芸愛好会
運動部
バスケットボール部
バレーボール部(男・女)
ソフトテニス部
卓球部
サッカー部
野球(軟式)部
ゴルフ部
ラグビー・フットボール部
フラッグフットボール部
バドミントン部
柔道部
剣道部
硬式テニス部
ソフトボール部
オリジナルダンス部
水泳同好会
校歌
初代校歌(1952年7月制定) 作詞:土岐善麿/作曲:信時潔
2代目校歌「風よ光よ」(1992年4月-2001年3月) 作詞:宗左近/作曲:中田喜直
小金井校舎への移転を機に作られた。宗左近の作詞で、独特な歌詞が注目を集め、伊集院光の深夜ラジオ番組でも取り上げられた。あまりにも独特の歌詞であったため、生徒はおろか教員までもがこの校歌を歌うのを躊躇したが、著名な詩人に作詞を依頼してしまったために断ることができず、そのまま校歌とした。男女共学化を理由に現在の校歌へと変更される。
3代目(現)校歌 作詞:阿部正路/作曲:松下耕
校歌は3代にわたって変更されたが、いずれも著名な作詞家・作曲家に制作を依頼している。2001年3月に歴代の校歌を集めたCD(非売品)が制作された。歌は菅原洋一が歌っている。
交通
JR中央線 東小金井駅北口下車 徒歩5分。
関東バス 柳橋線:鷹33系統 三鷹駅~武蔵小金井駅「梶野町」下車 徒歩8分。
著名な出身者
矢追純一 - UFO研究家
春風亭小朝 - 落語家
笠原昌春 - プロ野球セ・リーグ審判員
飯島勲 - 元・首相秘書官
堤大二郎 - 俳優
織田あきら - 俳優
蟹江栄司 - 声優
及川拓馬 - 将棋棋士
内藤寛 - プログラマー
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さいたま市立内谷中学校
概要
さいたま市の南部に位置し、生徒数が千を超える県内きってのマンモス校である。学級数は1学年11クラス2,3学年は10クラス
男子の制服は学ラン、女子の制服は紺色のブレザー。学年カラーはレッド・ブルー・グリーン。
隣には、さいたま市立沼影小学校がある。
最寄り駅は武蔵浦和駅。
校歌
作詞:榎木冨士夫、作曲:寺島尚彦。
校歌としては珍しく、「白いノート」という題名が付けられている。
「白いノート」は本校のキーワードであり、同じ名称の生徒会誌が主に広報委員の編集により3月の終業式間際に配られる。
歌詞の一番には「サクラソウ」二番に「欅」があり、さいたまの風土を表している。
沿革
1982年(昭和57年)4月1日 - 浦和市立白幡中学校、南浦和中学校から分離し、浦和市立内谷中学校として開校。
1982年(昭和57年)8月16日 - プールが完成。
2001年(平成13年)5月1日 - さいたま市発足に伴い、さいたま市立内谷中学校に校名変更をした。
年間行事
4月 - 入学式、始業式
5月 - 中間テスト
6月 - 1年校外学習、2年林間学校
7月 - 期末テスト、終業式、3年修学旅行
9月 - 始業式
10月 - 体育祭、合唱祭、中間テスト
11月 - マラソン大会、バザー
12月 - 期末テスト、終業式
1月 - 始業式
2月 - 1・2年百人一首大会
3月 - 卒業式、修了式、三送会、学年末テスト
専門委員会
()以外のものは、原則として学級において男女各1名計2名。
学級
美化
保健
体育
給食
図書
放送
広報
緑化
(三送会実行委員)
(選挙管理)
(装飾)
部活動
部活動の加入は、運動部・文化部のうち原則として1つの部に所属するが、任意制である。
運動系 野球部
ソフトボール部
サッカー部
水泳部(男女)
バレーボール部(男女)
ソフトテニス部(男女)
バスケットボール部(男女)
卓球部(男女)
剣道部(男女)
バドミントン部(男女)
陸上部(男女)
文化部 工芸部
美術部
吹奏楽部
家庭科部
将棋部
パソコン部
科学部
演劇部
所在地
さいたま市南区内谷6-10-1
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足立区立第六中学校
沿革
1947年4月19日 - 東京都足立区立第六中学校設置
1947年5月3日 - 東京都足立区立本木小学校にて授業開始
1949年3月18日 - 足立区本木一丁目640番地に独立校舎竣工
1957年3月20日 - 現在地に移転
2007年11月17日 - 創立60周年記念式典挙行
出身有名人
大場政夫 - プロボクサー、WBA世界フライ級チャンピオン
足立区立第六中学校
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