概要
早稲田大学の附属校であり、組織内では大学直属の学校として扱われる。中等部の創設に至るまで、「高大一貫教育」を掲げてきた。原則として卒業生全員が早大の各学部へ進学できる。
1学年の定員が500人、全学年で1,500人と、高校としてはマンモス校である。1学級は約40人であり、A - L組までの12クラスが存在する。 1学年600人であったが、中学部の設立に伴い高等学院の定員は削減されたためである。
校風は極めて自由である。制服として学生服が存在しているが、高等部のみ私服通学との選択制で、日々の学生生活では制服着用者と私服着用者(生徒全体の約10 - 20%)とが混在している。下駄、サンダル、半ズボンでの通学が禁止されている他に校則はない。アルバイトも届出なしに可能である。
一条校でありながら、早稲田大学本庄高等学院と共に、「学校」ではなく「学院」を称する珍しい機関。
組織内での位置
学校法人早稲田大学が設置する直属の附属高校は、本校と埼玉県本庄市にある早稲田大学本庄高等学院のみである。また直属の附属中学校としては、高等学院中学部が初めて設置された。
なお早稲田中学校・高等学校・早稲田実業学校・早稲田摂陵中学校・高等学校・早稲田佐賀中学校・高等学校・早稲田渋谷シンガポール校は、学校法人の異なる「系属校」の位置付けであり、本高等学院と直接的な関係はない。
旧制時代からの伝統を受け継ぐ大学直属の高校として、学院は大学学部と同等の扱いを組織内で受ける。その特徴として、生徒証は早稲田大学の学生証とほぼ同じものであり、早稲田大学図書館での入館証・利用者カードとして用いることができるほか、校舎敷地内への関係者以外の者の立ち入りも大学のキャンパス同様に自由であり、散歩や通り抜け、犬の散歩などをする者も多々見られる。また、建物のナンバーは大学のキャンパスの一部という位置付けになっており、大学のキャンパスとの通し番号が使われている(学院は70番台が割り当てられている)。
中学部
早稲田大学は、初の直系附属中学校となる高等学院中学部を、2010年度より新設する事を2008年7月19日に正式発表した。校舎の着工は同年8月。生徒数は1学年4クラスの120人。中学校入試の始まる2010年から、高等部募集枠を480人に、2010年度入学の中学部生が高校1年になる2013年度からは、さらに360人に減らし、中高全体で1800人を保つとされる。
高等学院と同中学部は中高一貫校の関係にあるが、一部のクラブ(特に運動系)は、「練習メニューが中学生と高校生では違いすぎるため同一の組織にするメリットが無い」との理由から、中学部生を受け入れない方針を表明している。また、学院祭の期間中には中学部は校外活動を行うなど、高等部と中学部では行事を共有することは基本的にない。これは根強い中学部設立反対意見に配慮したものと説明されている。
中学部設立に関しては内外からの反対が強く、設立決定前の校内アンケートでは反対がほぼ100%を占め、反対署名などの運動も行われた。教師・OBからの反対意見も強く出ていたが、大学側に押し切られる形で設立が決定となった。設立後の2010年度に発行された『学院雑誌』第57号でのアンケートでは「学院生にあってはならないものは?」という質問に対して「中等部」という回答が27%を占める結果となった なお、男女共学にするべきかとの論議も1990年代に存在していたが、そのためには教員の男女比率も半々にする必要があること、トイレなど学校施設の整備が必要という点などから、2010年の時点でも実現には至っていないものの、中学部の設立・中学校校舎建築・高校校舎立て替えが決定したため、共学化の計画は事実上無くなったとされる。本庄高等学院については2007年4月より共学化した。
校歌
高等学院は、その沿革から大学の学部と同等の扱いを受けるため、校歌は大学と同様に「都の西北」である。また、応援歌も大学と同様に「紺碧の空」である。
ウィキソースに都の西北の原文があります。
校地の由来
練馬区上石神井の現校地は、1477年(文明9年)に太田道灌が石神井城攻めの際に築いた陣城・愛宕山塁の跡に当たる。
教育
目的
早稲田大学の一員として、早稲田大学建学の精神に基づく。
特色
旧制以来の伝統として第二外国語が必修であり、ドイツ語・フランス語・ロシア語・中国語のいずれかを1年次より履修する。中学部の生徒は3年次よりドイツ語・フランス語・ロシア語・中国語、を3ヶ月ずつ学習し、それらを参考に高等学院での第2外国語を選択する。2005年度より開始された3年次の総合的な学習の時間では、1年次には班に分かれてのプレゼン発表、その後個人でのプレゼン発表、2年次にディベート、3年次には2年次に登録したテーマについて12000字程度の卒業論文の執筆が課されることとなった。そしてこの単位は学部進学要件となっている。
2006年度から、文部科学省のスーパーサイエンスハイスクールに指定されている。
専任教員は、ほぼ全員が修士課程以上の課程を修了しており、特に理科系においては博士号を持つ者も数多い。また、ほとんどの教員は大学でも講義をもつ、研究者である。このことは、本校が大学受験のことをまったく考えなくてよいという事情とともに、授業内容に大きな影響を与えている。すなわち、文部科学省の定める一般的なカリキュラムにとらわれることなく、大学のように教員の研究分野に沿った、より発展的・専門的な講義を、教員が展開する場合が多い。この傾向は特に社会科学系の科目に強く、教科書にまったく記述がないトピックを扱うこともままある。他方、理系科目ではコンピュータを活用するもの、大学の範囲を先取りするものなど、非常に高度かつ発展的な授業が行われている。
入学時に第二外国語科目および芸術科目を選択するが、その選択によってクラス分けが行われ、入学時から卒業までクラス替えが行われないことも特色である。そのため「学院”X”クラス同窓」としての交流は終生に及ぶ。
入学と同時に早稲田大学への進学が原則として保証されるが、期末試験・学年末試験で然るべき成績であること、出席日数を満たすことが条件成績は各科目100点満点で表され、50点未満が赤点となり、6単位分以上の赤点を取った場合と、一年間の総合平均が60点を下回った場合留年となる(赤点が5単位分の場合は総合平均62点未満が留年対象。これらは、学習指導要領の改訂や、授業時間数の変更などにより、時代により基準は変更されている)。50点以下が赤点という比較的高い基準であるため、毎年一学年につき20人前後が留年となる。この数は日本でも有数である。 始業は朝8時40分だが、かつては週に2回、1年生と2年生は10時40分始業の日が存在した。しかし、2013年度からの新カリキュラムへの移行により、2013年度入学生より登校時間は一律8時40分となった。 1コマ50分で、終業は15時00分。朝、および帰りのホームルームは行われず、各学年週1回、授業1コマを使ってロングホームルームが行われるが、実際にはホームルームは先生が30分程度で終了することもしばしばである。
大隈重信が「男は掃除をせずに勉強しろ」と言ったため、掃除もない。校内の掃除は専属の業者が毎日行っている。校舎はまだ建て替えてまもないこともあり、トイレ等は最新の設備が導入されておりたいへん清潔である。
旧制早稲田大学早稲田高等学院
沿革
略歴
早稲田大学は、前身の東京専門学校の時代から、本科の前段階に位置する予科を設けていたが、最初に置かれた予科は、本科入学を希望する者への1年の予備教育を行った(1883年 - 1886年)。2年後新規に設置された予科は高等小学校卒業者を対象に募集したが、折悪く大隈重信が爆弾テロに遭うなどの諸事情で学校の運営に支障が出たことで、学校再建策の一環で廃止されている(1888年 - 1891年)。中等学校卒業者を対象にした高等予科の誕生(1899年)をもって、現在の高等学院の源流を求めることができよう。1908年には理工科(現・理工学部)設置と共に、理科の高等予科も開かれた。
1920年に、早稲田大学が大学令による大学に昇格するのに伴い、高等予科も大学予科としての内容の充実が図られ、早稲田大学早稲田高等学院と改められた[4]。1922年より中学校4年修了者対象の第一高等学院・中学校卒業者対象の第二高等学院の2校体制を学制改革まで維持した。戦前期、早稲田大学の学部に入学するには、中等教育終了後、第一・第二いずれかの高等学院で予備教育を受ける必要があった[5]。
旧制から新制に転換する際には、旧制高等学校のように新制大学の教養部や各学部に再編されるのではなく、従来の実績を踏まえながら、大学の中核となる学生を育成する附属の新制高等学校として生まれ変わり、現在に続いている。
年表
高等予科時代1899年(明治32年) - 東京専門学校、英語政治科および文学部文学科・史学科に高等予科を設置。
1900年(明治33年) - 高等予科を一旦廃止し、改めて大学部の予備門に位置付けて新しく設置する(修業年限1年半)。
1903年(明治36年) - 第一(政治経済学科)、第二(法学科)、第三(文学科および高等師範部)、第四(商科)高等予科に分けられる。
1907年(明治40年) - 高等師範部のための第五高等予科が、第三高等予科より分離して発足。
1908年(明治41年) - 第五高等予科、学内の制度変更により、新設された理工科併置となる。
1916年(大正5年) - 「第○」高等予科の名称を、高等予科「第○部」に改める。
1917年(大正6年) - 修業年限を2年に延長。
1918年(大正7年) - この年より中学校卒業者に入学試験を課す。
旧制高等学院(大学予科)時代1920年(大正9年) - 早稲田大学高等予科を早稲田大学附属早稲田高等学院に改め、当時の東京府東京市牛込区戸山町(現在の早稲田大学戸山キャンパス)に開校。
1921年(大正10年) - 高等学院を第一部(3年制・文科と理科)・第二部(2年制・文科のみ)の2部制にする。
1922年(大正11年) - 第一部・第二部をそれぞれ第一早稲田高等学院・第二早稲田高等学院に改組。第二高等学院は大学構内に置かれた。
年表
新制高等学院時代1949年(昭和24年) - 学校教育法に基づく新制高等学校として、早稲田大学附属早稲田高等学院が発足。
1950年(昭和25年) - 現校名に改称。
1956年(昭和31年) - 現校地である練馬区上石神井の地に移転、現在に至る。同地は旧智山学園から大学が1954年に購入した。
2010年(平成22年) - 中学部を新設開校。
2014年(平成26年)- 第二期改築工事が終了し、講堂および体育施設棟が完成。
学校生活
生徒の活動
部活動
米式蹴球部・漕艇(ボート)部をはじめとして、ラグビー部・雄弁部・グリークラブ・ヨット部・軟式野球部・弓道部は全国レベルである。
米式蹴球部は全国大会優勝5回準優勝4回を誇る名門である。1990年代中盤には停滞期もあったが、近年では全国大会の常連となっている。2010年はクリスマスボウルで関西学院高等部を17-6で下し24年ぶり2度目の全国優勝を成し遂げている。2011年もまた、関東大会を制しクリスマスボウルへ出場し、大阪産業大学附属高校との熱戦を繰り広げ、10-10の両校優勝を果たし、二年連続日本一を成し遂げている。2012年も一年を通し無敗で、春秋と関東を制してクリスマスボウルへ出場した。クリスマスボウルでは関西学院高等部に28-17で勝利し、優勝、日本一。2013年のクリスマスボウルでは立命館宇治高校に勝利し、関東勢では史上初となる全国4連覇を達成した。2010年、2011年、2012年の3年間では、公式戦、練習試合において一度も負けること無く3連覇を達成した。
弓道部は、2006年インターハイ個人競技準優勝および8位入賞、2009年東京都新人大会個人優勝(全国選抜大会出場)および団体準優勝を果たした。2011年にも団体でのインターハイ出場。2013年には都秋季大会準優勝、関東個人選手権大会優勝。2014年には都個人大会優勝、都秋季大会準優勝および三位入賞(東日本大会出場)。同年11月には都新人大会で優勝し、三年ぶりの全国大会出場となった。東京都トップレベルの実力を有する。
漕艇部は1993年の全国選抜で舵手付きフォアで優勝、夏のインターハイでも3位入賞した(翌1994年にも全国選抜で4位になり、2006年に12年ぶりに全国選抜4位となった)。また、2007年に行われた秋田わか杉国体に12年ぶりに出場し入賞した。
ヨット部は2001年から2006年までの6年連続で国民体育大会東京都少年男子FJ級代表に選ばれている。
雄弁部は、競技ディベートを軸に活動している。激戦区である関東甲信越地区においては2006年夏季以降2年間不敗という戦績を残し、全国大会においては2009年に優勝し、2003年には準優勝、2002年や2007年にベスト4に入るなど目覚しい活躍を上げている。
グリークラブは2003年に全日本合唱コンクール全国大会で金賞を受賞している他、NHKに出演してNHK全国学校音楽コンクール課題曲の参考演奏をするなど、セミプロ的活動も行っている。
軟式野球部も全国に度々出場し、2012年の秋には関東の決勝で延長15回引き分け再試合という熱戦を繰り広げ、準優勝に輝いている。2013年には、関東大会準優勝・全国大会ベスト8、国体準優勝を果たした。
有志の活動生徒自身の手による課外活動も盛んであり、その代表例が、2000年に生徒有志によって発足した「環境プロジェクト」である。環境プロジェクトは、年2回、早稲田大学にて行われている「高校生環境フォーラム」の中心的な存在であるだけでなく、この夏には「高校生環境連盟」の発足を提案し、活動の幅を広げている。
年1回発行で、学校生活に関する特集やアンケート調査などが組まれる『学院雑誌』は約60年の歴史を有し、教師からは存在意義が疑問視されているものの、生徒らの手によって作成され続けている。
2005年、TBS系列で放映されたテレビ番組「学校へ行こう!MAX」での企画「文舞両道フリツケ甲子園(2005年9月6日O.A.)」においては、有志がダンスユニット「早稲6(ワセシックス)」を結成している。
行事
高等学院の主な行事は、「学院祭」・「体育祭」・「学・芸術交流祭」であり、修学旅行は存在しない(かつては実施されていたが、旅行先での学院生の振る舞いが悪かったため中止になった)。毎年10月に行われる「学院祭」こと、文化祭には約10,000 - 20,000人もの来場者が訪れる。そのため、全国でも有数の規模の文化祭であるといわれる。ただし中等部はこの期間中は校外活動を行う。これは根強い中等部設立反対意見に配慮したものと説明されている。体育祭の時期も、中等部は校外活動を行う。体育祭は、男子校ゆえに非常に熱くなるが、中には朝出席だけ取って帰る人や、教室でずっと遊んでいる者もいる。
期末試験後は終業式までおよそ1週間前後の休み、入試期間中にも約1週間の休みが与えられ、そして夏休みは7月半ばから9月第1週まで、など休みが多い。