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早稲田実業学校初等部・中等部・高等部

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概要
通称は「早実」(そうじつ)・「実業」。早稲田大学の系属校である。理事長は早稲田大学総長の鎌田薫(2010年11月より)。学校長は早稲田大学教育・総合科学学術院教授の藁谷友紀。初等部校長は橋詰敏長。
小中高一貫教育を行い、早稲田大学への推薦入学制度がある。大学への推薦枠は他の附属・系属校とは別に独自の枠として定めている。高等部から入学した外部進学の生徒が中等部(または初等部)から入学した内部進学の生徒と一緒に高等部第1学年からクラスが混合される併設型中高一貫校である。
校名は実業学校であるが、現在は普通科のみで実業教育は施していない。「早稲田実業高校」の表記が散見されるが誤記である。

沿革
1901年(明治34年)、早稲田大学の前身である東京専門学校が大学としての基礎を確立したころ、創立者である大隈重信の教育理念を実現し、その建学精神に基づいた中等教育を目指して大隈重信の周囲の者達により設立された。
「豊かな個性と高い学力をもち、苦難にうち勝つたくましい精神力を兼ね備えた人物」を育成するために、校是として「去華就実」(華やかなものを去り、実に就く)を、校訓として「三敬主義」(他を敬し、己を敬し、事物を敬す)を創立当初から掲げてきた。また、多くの旧制中等教育学校が5年制をとる中にあって、独自の6年制教育を行っていた。
大正期に入るとスポーツ活動の充実を図り、質実剛健の校風が確立されていった。その後、戦災で校舎は廃墟となったが、関係者の尽力により復興を果たし、第二次世界大戦後に復興した。
2001年に創立100周年を迎え、それまで早稲田鶴巻町にあったキャンパスを国分寺に移転し、中学部の呼称を中等部に改称した。さらに2002年4月からは、早稲田大学の系列校では初めて中等部、高等部とも男女共学を実施、また、初等部を開設する。
学校創立前後の経緯については岩波文庫『湛山回想』で石橋湛山による記述がある。

年表
1901年 - 早稲田大学の創設者たちにより、早稲田実業中学(3年制各種学校)が早稲田中学校の校舎内に開校。
1902年 - 早稲田実業学校と改称。甲種商業学校に編成され、修業年限を予科1年・本科4年・専攻科2年に変更。大成会発足。
1903年 - 早稲田大学の構内に校舎を構える。
1904年 - 修業年限を本科3年・専攻科2年に変更。
1907年 - 早稲田鶴巻町に校舎を移す。修業年限本科4年に変更・専攻科廃止。
1908年 - 予科2年を設置。
1912年 - 夜間部(2年制各種学校の扱い)設置。
1913年 - 校歌を制定。
1917年 - 早稲田騒動により、大学の傘下から離れる。
1925年 - 本科6年制に変更(予科廃止)。夜間部も4年制に延長(同時に甲種商業学校に昇格)。
1926年 - 早稲田商科学校(2年制各種学校)を併設。
1928年 - 昼間部を第一本科・夜間部を第二本科に改める。
1929年 - 早稲田商科学校を3年制に変更。
1933年 - 第二本科の修業年限を5年に変更。
1937年 - 武蔵関にグラウンド造成。
1942年 - 修業年限を5年に短縮。
1943年 - 修業年限4年に短縮。
1944年 - 早稲田実業学校としての生徒募集停止。替わりに早実工業学校を設置(翌年廃止)。早稲田商科学校廃止。
1945年 - 戦時教育令を受けて授業停止。空襲により校舎焼失。終戦直後は、早稲田中学校校舎の借用や青空教室などで授業を再開。
1947年 - 学制改革により新制の早実中学校設置(翌年中学部に改称)。
1948年 - 学制改革により第一本科を中学・高等部の6年制へ、第二本科を4年制の第二高等部(従来通り夜間部)に改編。
1957年 - 応援歌「若き力」・「伝統の旗」・「勝利の歌」発表。
1961年 - 大成会、新しく発足した生徒会に包括される。
1963年 - 「早稲田実業学校の早稲田大学系列下編入に関する合意書」調印。創立時の形態に戻り、早稲田大学系列に復帰。第二高等部廃止[3]。
1964年 - 普通科を設置。
1966年 - 2学期制に移行。
1975年 - 駒ヶ根校舎およびグラウンド完成。
1999年 - 武蔵関グラウンド閉鎖。
2001年 - 中学部を中等部に改称。国分寺市本町の新校舎に移転。創立百周年記念歌「ワセダ輝く」発表。
2002年 - 商業科募集停止。男女共学を実施。初等部開校。

学校施設
国分寺キャンパス(本部)
1号館 - ホール・普通教室・特別教室
2号館 - 体育館・食堂・ラウンジ・普通教室・特別教室
3号館 - 図書館・普通教室・特別教室
4号館 - 屋内運動場・部室・弓道場
5号館 - 初等部校舎(普通教室・特別教室)
6号館 - 体育館(初等部用)
その他、グラウンド(中・高等部と初等部別に設置)や屋外プールなどが用意されている。
初等部にはトラックやサッカーコートなどがある
校舎移転前は新日本製鐵の関連施設があった。校舎も新日本製鐵が「環境にやさしい鉄骨造エコスクール」のコンセプトの下に設計・建設した[4][5]。
駒ヶ根校舎
長野県駒ヶ根市に位置する。宿泊機能を備え、新入生のオリエンテーションや各クラブの合宿に利用される。2008年に建て替え工事が完成。
王貞治記念グラウンド
東京都八王子市南大沢にある。主に硬式野球部が練習・試合に使用する。2004年より使用。
過去に存在した施設[編集]
旧校舎(早稲田鶴巻町キャンパス)
1907年4月 - 2001年3月まで使用された。旧制早稲田中学校の寄宿舎跡地を受け継いだものであった。現在は早稲田大学の120号館として、研究開発センター・大学史資料センターが置かれている他、大学の授業に利用される。
武蔵関グラウンド
東京都練馬区に所在した。1937年より運動場として使用されたが、1999年に、国分寺キャンパスへの移転に伴い閉鎖される。硬式野球部員だった頃の王貞治や荒木大輔らも汗を流した場所であった。戦時中は食糧増産のために生徒が野菜を栽培していたことがある。現在、グラウンド跡にはマンションが建ち、その近くには「早実グラウンド記念公園」が整備されている。

部活動
早稲田実業学校の部活動の起源は1902年に発足した「大成会」に求めることができる。2代目校長天野為之が「大器晩成」の語より命名し、「学生相互の親睦を計り知識の交換をなし体育を奨励し校風を発輝する」ことを目的に発足した。そのため、古くから体育・文化系を問わずクラブ活動が盛ん。
硬式野球部は全国高校野球大会(甲子園)に出場45回(夏の選手権大会は第1回大会から出場して27回、春の選抜大会も第1回大会から出場し18回)。春夏併せての甲子園通算成績は58勝44敗。優勝は1957年春大会、2006年夏の大会各1回。
バスケットボール部もインターハイ11回、春の選抜・ウィンターカップ4回出場の名門である。1971年インターハイと1974年春の選抜では準優勝を果たしている。直近で出場した全国大会は2003年の第39回ウィンターカップで、1回戦金沢高校に84 - 100で敗戦。
硬式テニス部(男子団体)は全国選抜高等学校テニス大会の第1回大会では優勝を果たしている。
硬式野球部
第89回夏の大会・阪神甲子園球場へ優勝旗返還のために開会式に参加した早実・川西啓介主将
早稲田実業学校高等部硬式野球部は全国高校野球大会に計45回出場している。春の選抜高校野球大会にはこれまで18回出場し、1957年の第29回大会では王貞治投手(現・プロ野球コミッショナー特別顧問)が投打に活躍し、決勝戦で高知商業を5-3で下し初優勝している。
夏の全国高校野球選手権大会にはこれまで27回出場している。2006年の第88回大会では決勝戦で南北海道代表の駒大苫小牧を引き分け再試合で4-3で下し初優勝を果たした(第88回全国高等学校野球選手権大会決勝を参照)。優勝投手は斎藤佑樹。
夏の大会は学校を移転したことや、東京都の東西地区割りが変更されたこともあり両地区から出場。地区予選で旧東京都大会・東東京・西東京ブロックの3大会での優勝は史上初である。
2006年ののじぎく兵庫国体では決勝戦では駒大苫小牧と再び対戦し、1-0で駒大苫小牧を下し29年ぶり2度目の優勝を果たし、夏の甲子園大会・国体の2冠を達成した。
第1回全国中等学校優勝野球大会(1915年・大正4)に出場した学校のうち、第1回大会で優勝した京都二中(現鳥羽)、大正期に連覇した和歌山中(現桐蔭)に続いて、第二次世界大戦後では初の深紅の優勝旗を持ち帰った学校となっている。

「日本の宇宙開発発祥の地」の記念碑
国分寺市が日本の宇宙開発発祥の地であることを伝承するために、2005年「日本の宇宙開発発祥の地顕彰会」が発足し2006年同校校門前に記念碑が建立された。糸川英夫のペンシルロケットの実験から50周年を記念したもので、早稲田実業学校の校友会や市の観光協会、商工会などが参加。記念碑ペンシルロケットの形をイメージした1.3mのもので、実験をする糸川教授の姿が刻まれた。除幕式の後に JAXA の的川泰宣・宇宙教育センター長の講演と、糸川教授に50年間チェロを教えた松下修也のチェロコンサートが開催された[6]。タイムカプセルも設置された。2012年糸川英夫博士生誕百周年を記念し、教職員らがペンシルロケット超音速実験を行った。

校賓
王貞治
小室哲哉

出身者
政財界
松永東 - 衆議院議員 元衆議院議長 1907年卒
高瀬荘太郎 - 一橋大学学長、参議院議員 元文部大臣 1909年卒
菊池義郎 - 衆議院議員・勲一等瑞宝章受章 1911年卒
吉聖運 - 元韓国済州道知事 1933年第二本科卒
木村茂 - 元千代田区長 1942年卒
福永正通 - 東京メトロ副社長 元東京都副知事 1960年卒
鎌田泉 - 白元創業者 1923年中退
酒井億尋 - 荏原製作所元社長 1926年卒
高田亮一 - 日野自動車工業元会長 1927年卒
本吉敏男 - アシェット婦人画報社元会長 1942年卒
重光武雄(辛格浩) - ロッテグループ総帥 1946年卒
岡部稔 - 岡部ホテルグループ社長 1960年卒
池田哲雄 - ベースボールマガジン社社長 1976年卒
大多亮 - フジテレビジョン執行役員クリエイティブ局長 1977年卒
前澤友作 - スタートトゥデイ創業者
杉本和巳 - 衆議院議員(民主党)、元みずほフィナンシャルグループ広報部参事役 1979年卒
菅原一秀 - 衆議院議員(自民党) 1981年卒
萩生田光一 - 衆議院議員(自民党)1982年卒
平将明 - 衆議院議員(自民党)、日本振興銀行役員
斎藤健 - 元埼玉県副知事、元経産官僚 / 中等部まで
学者・教育者
上野安紹 - 宇都宮学園創立者 1906年専攻科卒
細野軍治 - 国際政治学者 1915年卒
齊藤金作 - 刑法学者・早稲田大学法学部教授 1920年中退
林郁彦 - 工学者・元早稲田大学理工学部教授・現名誉教授 1943年卒
金貞泰 - 元韓国政府施設評価委員・教授 1945年卒
小林威雄 - 経済学者 1945年卒
三島博信 - 医学博士・教授 1945年卒
村山元英 - 千葉大学名誉教授・元中京大学教授 1954年卒
山下精彦 - 医学博士・教授 1958年卒
北野宏明 - ソニーコンピュータサイエンス研究所取締役副所長 1979年卒
三浦つとむ - 言語学者
文化芸能
竹久夢二 - 画家・詩人 1905年専攻科中退
林武 - 画家・教授 1910年中退
村野次郎 - 歌人・村野四郎の兄 1913年卒
藤原義江 - オペラ歌手 1914年中退
明石潮 - 俳優 1915年卒
高橋半 - 作曲家 1924年中退
一龍斎貞丈(5代目)-講談師 1926年中退
清水三朗 - 小説家 1936年卒
堀秀彦 - 脚本家・演出家 1943年卒
都筑道夫 - 小説家・翻訳家 1946年中退
保田勝久 - 陶芸家 1948年卒
オグラトクー(小倉得宇) - 漫画家 1950年卒
内海清美 - 和紙彫塑作家 1956年卒
青山哲也 - 俳優 1959年卒
テリー伊藤 - 番組プロデューサー・タレント 1968年卒
大口広司 - テンプターズ 1968年卒
樋口淳一 - NHKアナウンサー 1970年卒
相羽高徳 - アートディレクター 1972年卒
ハル常住 - ゴルフジャーナリスト 1974年卒
小室哲哉 - ミュージシャン・音楽プロデューサー 1977年卒
岩上安身 - フリージャーナリスト・ノンフィクション作家
大迫一輝 - 陶芸家 1978年卒
向坂樹興 - フジテレビアナウンサー 1978年卒
南柱根 - 脚本家 1981年卒
松本晃彦-作曲家 1981年卒
水谷彰宏 - NHKアナウンサー 1983年卒
野島卓 - フジテレビアナウンサー 1985年卒
斉藤一美 - 文化放送アナウンサー 1986年卒
田﨑竜太 - 映画監督 1983年卒
清水次郎 - 朝日放送アナウンサー 1990年卒
二瓶晃 - 現代美術家 1991年卒
石井輝男 - 映画監督 中退
中上雅巳 - 俳優・元いいとも青年隊 中退
松本龍 - 東日本放送アナウンサー
 三浦康嗣 - ミュージシャン ポップユニット、□□□(クチロロ)のメンバー
 南波一海 - ミュージシャン ポップユニット、□□□(クチロロ)のメンバー
中尾隆聖 - 俳優、声優
平尾仁 - 俳優、声優
日高光啓 - 歌手(AAA ・ Mother Ninja)
渡辺雄介 - 脚本家 1998年卒
吉田一郎 - ミュージシャン 2001年卒
中村太地 - 将棋棋士
スポーツ
プロ野球
岡田源三郎 - 元プロ野球選手、明治大卒・元明大野球部監督、野球殿堂
西池秀豪 - 元プロ野球選手
手塚勝巳 - 元プロ野球選手、元俳優
安永正四郎 - 元プロ野球選手 1934年卒
日野弘美 - 元プロ野球選手 1933年卒 明治大卒
宮下義雄 - 元プロ野球選手 1934年卒
太田健一 - 元プロ野球選手 1937年卒
望月潤一 - 元プロ野球選手 1937年卒
小林善一郎 - 元プロ野球選手 1937年卒
星野正男 - 元プロ野球選手
宮下信明 - 元プロ野球選手 1943年卒
小田切茂造 - 元プロ野球選手 中央大卒
荒川博 - 元プロ野球選手・監督 1949年卒 早大卒
海部和夫 - 元プロ野球選手 1949年卒
田中淳二 - 元プロ野球選手
佃明忠 - 元プロ野球選手 1954年卒 
齋藤精宏 - 元プロ野球選手 1954年卒 早大卒
榎本喜八 - 元プロ野球選手 元祖「安打製造機」 1955年卒 
河西宏和 - 元プロ野球選手 1955年卒
徳武定之 - 早慶六連戦で主将・四番 元プロ野球選手・千葉ロッテマリーンズ・中日ドラゴンズ代行監督 1957年卒 早大卒
醍醐猛夫 - 元プロ野球選手 1957年卒
王貞治 - 元プロ野球選手・元福岡ソフトバンクホークス監督、野球殿堂 1959年卒
河原田明 - 元プロ野球選手 1959年卒
相沢邦昭 - 元プロ野球選手 1958年卒
醍醐俊光 - 元プロ野球選手
西田暢 - 元プロ野球選手 早大卒
内田桂一 - 元プロ野球選手
金村東 - 元プロ野球選手 1968年卒
大矢明彦 - 元プロ野球選手・元横浜ベイスターズ監督 1966年卒 駒沢大卒
荒川尭 - 元プロ野球選手、「右の王」・東京六大学野球通算本塁打4位 1966年卒 早大卒
石渡茂 - 元プロ野球選手 1971年卒 中央大卒
田村登志親 - 元プロ野球選手 中央大卒
田野倉利行 - 元プロ野球選手 1973年卒
有賀佳弘 - 元プロ野球選手、東京六大学野球首位打者 1976年卒 早大卒
川又米利 - 元プロ野球選手・解説者 1979年卒
荒木大輔 - 元プロ野球選手・投手コーチ 1983年卒
石井丈裕 - 元プロ野球選手 1983年卒 法政大卒
板倉賢司 - 元プロ野球選手 1984年卒
上福元勤 - 元プロ野球選手 1984年卒。2007年逝去
斎藤佑樹 - 第88回全国高等学校野球選手権大会優勝投手(春夏共に引き分け再試合を経験) 2007年卒 早大卒。
塚田晃平 - プロ野球選手 2008年卒 早大卒。
アマ野球
水上義信 - 六大学野球草創期の早大野球部投手 1925年卒 早大卒
高橋外喜雄 - 戦前の甲子園出場時の名投手 1927年卒、戦死、早大卒
本橋精一 - 戦前の甲子園出場時の名投手、戦死、早大卒
島津雅男 - 戦前の甲子園出場時の投手、早実OB会名誉会長、元学習院大野球部監督(東都リーグ初優勝)。1932年卒
宮井勝成 - 元早実野球部監督、早実OB会会長、中央大学硬式野球部総監督。1946年卒、中央大卒。
和田明 - 元早実野球部監督 1955年卒
中屋恵久男 - 元社会人野球選手、学生日本代表。元西武・石毛宏典のライバル。 1975年卒 早大卒
清水隆一 - 元熊谷組監督 1978年卒 早大卒
弓田鋭彦 - 甲子園出場時投手、ベスト8 1978年卒 早大卒
山岡靖 - 甲子園出場時投手 1979年卒 早大卒
荒木健二 - 早慶戦で山岡靖・広岡資生(姫路東)との三者連続ホームラン。荒木大輔の兄 1979年卒 早大卒
阿久根謙司 - 東京フットボールクラブ(FC東京)代表取締役社長、元東京ガス監督 東京六大学野球ベストナイン2回 1982年秋早慶戦で優勝を決める決勝打 のち東京ガスで活躍 1980年卒 早大卒
和泉実 - 現早実野球部監督 2006年度全国高等学校野球選手権大会で全国制覇 1980年卒 早大卒
栗林友一 - 1980年度全国高等学校野球選手権大会準優勝時主将 1981年卒 中央大卒
小山寛陽 - 元関東一高監督 1982年卒 早大卒
小沢章一 - 元千葉英和高野球部監督、2006年逝去。 1983年卒 早大卒。
松本達夫 - 日本テレビチーフプロデューサー。捕手として荒木とバッテリー組む。1983年卒 早大卒。
その他
マシオ駒 - 元プロレスラー
藤野素宏 - プロバスケットボール選手 日本人3人目のABAプレイヤー、早大卒
倉石平 - 元バスケットボール選手 早大コーチ
木下直哉 - バスケットボール選手、2003年度ウィンターカップ出場時の主将、豊田合成スコーピオンズ所属、2004年卒、早大卒
原田正彦 - 元早大競走部選手、2002年箱根駅伝2区区間賞、1998年卒、早大卒
打矢二郎 - 元早大ラグビー部フランカー、1989年度大学選手権優勝 1985年卒 早大卒
古賀聡 - 元Jリーガー、元Jリーグ鹿島アントラーズ所属、現:早稲田大学ア式蹴球部監督 1988年卒 、早大卒
外池大亮 - 元Jリーガー、元Jリーグ湘南ベルマーレ在籍、1993年卒、早大卒
佐々木崇 - 元Jリーガー、元Jリーグガンバ大阪在籍、1993年卒、早大卒
島村毅 - Jリーガー、湘南ベルマーレ在籍、2004年卒、早大卒
常盤聡 - Jリーガー、ギラヴァンツ北九州在籍、2006年卒
田中言 - 早稲田大学競走部選手、2011年卒、早大在学



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